新規のリード獲得には人も予算もかけているが、既存顧客に対しては契約後ほとんど何もしていない。請求と定例のやり取りだけが続き、追加の提案は営業担当が思い出したときに行う。BtoBの企業でよく見られる状態です。
既存顧客からの売上拡大というと、アップセルとクロスセルの手法が語られます。上位プランへの引き上げと、別商材の追加提案です。ただし提案の内容や話法を整える前に、確認すべきことがあります。今の商材が実際に使われているかどうかです。使われていない顧客に上位プランを提案しても通りません。
この記事では、既存拡大が本当に有利かの判断、カスタマーサクセス部門がない企業でマーケティングが担える役割、提案の前に見るべき利用状況、タイミングの捉え方までを扱います。
目次
既存拡大は新規より簡単とは限らない
よく引かれる法則を、そのまま前提にしないでください。
既存顧客の話になると、必ず引用される数字があります。新規顧客の獲得には既存顧客の維持の5倍のコストがかかる、というものです。多くの記事がこの比率を根拠に、既存への投資を勧めています。
この比率は広く引用されていますが、元になった調査の出典は明確ではなく、業種や商材による差も大きい数字です。方向性として既存が有利になりやすいのは確かですが、自社の判断材料としてこの比率をそのまま使うことはおすすめしません。
実際、既存拡大が難しい商材もあります。
- 単一商材で上位プランがない:提案できるものが存在しないため、拡大の余地が構造的にありません
- 導入したら完了する性質の商材:一度入れたら追加の必要がないものは、拡大より紹介の獲得に向かいます
- 顧客数が極端に少ない:10社しかない場合、施策として設計するより個別対応のほうが現実的です
- 初期の顧客に無理な条件で入れている:値引きや特例で契約した顧客は、値上げも追加提案も通りにくくなります
自社が既存拡大に向いているかは、この4点で確認してください。該当するなら、新規獲得や紹介の設計に力を割いたほうが成果は出ます。
投資配分をどう判断するかは、LTVとCACの考え方で扱っている枠組みが使えます。既存拡大はLTVを伸ばす施策なので、獲得コストとの兼ね合いで判断します。
マーケティングが既存顧客に対してできること
カスタマーサクセスがない企業でも、できることは残っています。
アップセルとクロスセルは、一般にカスタマーサクセスの担当領域とされます。ただし専任のカスタマーサクセスを置いている企業は限られ、多くは営業が兼務するか、誰も担当していない状態です。
この状況でマーケティングが担えるのは、営業が動くための材料と機会を用意することです。
いずれも、営業に代わって提案するのではなく、営業が提案しやすい状態を作る仕事です。専任のカスタマーサクセスがいない組織では、この4つを担うだけで既存からの売上が動きます。
営業との分担の設計は、マーケティングと営業の連携で扱っている考え方がそのまま使えます。新規のリード引き渡しと同じ構造を、既存顧客側にも作ると考えてください。
提案の前に利用状況を見る
使われていない顧客への上位提案は、ほぼ通りません。
ここが最も重要な部分です。アップセルの提案が通るかどうかは、話法や資料の出来ではなく、今の商材が使われているかで決まります。
導入したものの活用が進んでいない顧客に、上位プランを提案したとします。相手の頭に浮かぶのは「今のも使えていないのに」という感覚です。この状態では、どれだけ良い提案でも判断が前に進みません。むしろ、契約の見直しを考えるきっかけを与えることになります。
顧客を利用状況で分けてください。分け方は3つで足ります。
| 状態 | 見分け方 | 打つ手 |
|---|---|---|
| 使えている | 利用が定着し、社内で人数が増えている | 拡大の提案をする |
| 使えているが限定的 | 特定の部署や機能だけで止まっている | 横展開の提案をする |
| 使えていない | 利用が減っている、問い合わせも来ない | 提案しない。活用の支援に回る |
3つ目に該当する顧客への対応が、結果的に最も売上に効きます。今の商材を使える状態にすることが、次の提案の前提条件になるためです。ここを飛ばして提案だけを重ねると、解約の方向に進みます。
利用状況が分からない場合は、まず把握できる形を作ってください。管理画面のログインが取れるならそれで十分です。取れない商材なら、四半期に1回「使えていますか」と聞くだけでも判断材料になります。
提供している商材の性質上、利用データが取れないこともあります。その場合は、問い合わせの頻度、定例での発言量、担当者からの相談内容といった定性的な情報で代替してください。完全なデータより、判断できる材料があることのほうが重要です。
そもそもの値付けや上位プランの作り方はBtoBの価格設定で扱っています。提案できる商材が存在しない場合、拡大の余地は構造的にありません。
提案すべきタイミングを捉える
思い出したときではなく、条件で拾います。
提案が営業担当の記憶に依存していると、機会を逃します。次のような状況を条件として決めておき、該当したら知らせる形にしてください。
- 利用が増えている:人数や量が伸びている顧客は、上位プランの必要性が実際に生じています
- 上限に近づいている:契約の枠に対して使用量が迫っている状態は、最も自然な提案の機会です
- 担当者が変わった:新しい担当者は現状を評価し直します。良い方向にも悪い方向にも動く分岐点です
- 相手の組織が変わった:部署の統合や人員の増加は、横展開の機会になります
- 予算編成の時期:多くの企業で年度末の数ヶ月前に検討が始まります。提案はその前に置きます
- 相手から質問が来た:機能や運用についての問い合わせは、関心が高まっている合図です
すべてを仕組み化する必要はありません。まず2つか3つを選び、該当する顧客を月に1回リストにして営業に渡す形から始めてください。自動化はその後で構いません。
予算編成の時期については、相手の決算月を記録しておくと精度が上がります。BtoBでは検討から発注まで時間がかかるため、予算が固まる前に情報が届いている必要があります。逆に予算が確定した後の提案は、内容が良くても翌年度に回されます。
タイミングを整理する際は、カスタマージャーニーマップの作り方の考え方を契約後の期間にも延長して適用してください。多くの企業はジャーニーを受注で終わらせていますが、その先にも検討と判断の局面があります。
既存顧客を配信の対象に入れる
新規向けの配信だけを回している企業が大半です。
メール配信の設計を確認してみてください。多くの企業で、配信リストは新規のリードだけで構成され、既存顧客は対象から外れています。契約後は営業とのやり取りに移るため、マーケティング側の接点が切れるという構造です。
この状態では、顧客が知らないまま終わる情報が出てきます。新しく追加された機能、他社の活用方法、関連する別商材。営業が個別に伝えない限り届きません。
何を送るか
既存顧客向けの配信は、新規向けとは内容を変えてください。既に選んでもらった相手に、選ぶ理由を説明する必要はありません。
- 他社の使い方:同じ商材をどう活用しているかは、最も読まれる内容です
- 機能や運用の更新:知らないまま使われていない機能を減らします
- 担当者の役に立つ情報:商材と直接関係なくても、その職種の人が知りたい内容であれば読まれます
頻度は新規向けより低くて構いません。月に1回から始め、開封の状況を見て調整してください。頻度の設計はBtoBメール配信の頻度、内容の設計はメールマガジンの内容設計で扱っています。
他社の使い方を伝える材料としては、導入事例がそのまま使えます。新規獲得のために作った事例を既存顧客向けにも配ると、活用のヒントとして機能します。事例の作り方はBtoB導入事例の作り方で扱っています。
誰がやるかを決める
担当が決まっていないことが、着手されない最大の理由です。
既存顧客からの拡大が進まない企業では、担当が曖昧なことがほとんどです。営業は新規の数字を追い、マーケティングは新規のリードを追い、既存顧客は誰の目標にも入っていません。
専任を置けるならそれが早いのですが、人員に余裕がない場合は次の分担で始めてください。
- マーケティングが対象顧客のリストを出す:利用状況とタイミングの条件で絞り、月に1回渡します
- 営業が提案する:リストの顧客に、既存の関係の中で提案します
- 結果を戻す:提案が通ったか、断られた理由は何かを記録します
3番目を省略しないでください。断られた理由が溜まると、条件の精度が上がります。「利用は増えているが予算の時期が合わなかった」といった情報が、次の月のリストの作り方を変えます。
目標の設定については、既存からの売上を新規と分けて見てください。合算していると、新規が好調な月に既存の停滞が隠れます。指標の分け方はBtoBマーケティングのKPI設計で扱っています。
既存顧客への打ち手をどう設計するか相談したい場合は、現在の顧客数と体制を前提にご相談いただけます。
値上げをどう扱うか
単価向上の手段には、追加提案のほかに既存契約の値上げがあります。原価や人件費が上がっている状況では避けられない判断ですが、進め方を誤ると解約につながります。
前提は同じで、使われている顧客にしか通りません。活用が進んでいない顧客に値上げを伝えると、契約の見直しを検討する動機になります。値上げの通知を出す前に、利用状況で顧客を分けてください。
伝え方では、3つを守ってください。1つ目は、十分な期間を置くこと。相手にも予算の都合があるため、次の更新の数ヶ月前には伝えます。2つ目は、理由を具体的に書くこと。「諸般の事情により」ではなく、何のコストがどう変わったかを説明します。3つ目は、営業担当から個別に伝えること。一斉通知だけで済ませると、関係が良い顧客ほど不信感を持ちます。
解約の予兆を先に見る
既存顧客の売上を伸ばす取り組みは、解約を防ぐ取り組みと表裏です。単価を上げても解約が増えれば、合計では減ります。
予兆として見るべきは、利用の減少、問い合わせの停止、定例の欠席が続くこと、そして担当者の交代です。特に最後は見落とされがちですが、導入を決めた人がいなくなると、その商材を守る人もいなくなります。担当者が変わったという情報は、提案の機会であると同時に、注意すべき合図でもあります。
予兆に該当した顧客には、提案ではなく状況の確認から入ってください。順序を間違えると、離れかけている相手に売り込む形になります。
紹介を依頼する
既存顧客からの売上拡大には、その顧客自身への追加提案のほかに、別の企業を紹介してもらう経路があります。獲得コストがかからず、確度も高い経路ですが、依頼していない企業がほとんどです。
依頼するタイミングは、相手が成果を実感した直後です。定例で良い反応があったとき、事例取材に協力してもらったとき、目標を達成したときが該当します。逆に、契約更新の直前は避けてください。取引条件の話と紹介の依頼が重なると、相手に判断の負担がかかります。
まとめ
BtoBのアップセル・クロスセルで押さえるべき点を整理します。
- よく引かれる「新規は既存の5倍のコスト」という比率は出典が曖昧。自社の判断材料としてそのまま使わない
- 上位プランがない、導入で完了する商材、顧客数が極端に少ない場合は既存拡大に向かない
- 提案が通るかは話法や資料ではなく、今の商材が使われているかで決まる
- 使えていない顧客には提案しない。活用の支援に回るほうが結果的に売上に効く
- 提案は営業の記憶に頼らず、利用の増加・上限接近・担当者の交代などを条件として拾う
- 予算が確定した後の提案は、内容が良くても翌年度に回される
- 既存顧客を配信の対象に入れる。新規向けとは内容を変え、他社の使い方を中心にする
- 担当が決まっていないと着手されない。マーケがリストを出し、営業が提案し、結果を戻す
- 既存からの売上は新規と分けて見る。合算すると停滞が隠れる
既存顧客からの拡大は、新しい施策を足す話ではありません。既に関係のある相手に対して、何が起きているかを見る仕組みを作る作業です。派手さはありませんが、獲得コストがかからない分、成果は数字に直結します。
既存顧客施策のご相談
何から着手すべきかの整理からご相談いただけます
「既存顧客に何もできていない」「専任を置く余裕がない」といった状態を、顧客数と体制から具体化します。カスタマーサクセスの部署がない段階でも問題ありません。
よくある質問
- アップセルとクロスセルはどう違いますか。
- アップセルは今使っている商材の上位プランや追加機能を提案すること、クロスセルは別の商材を追加で提案することです。実務上はアップセルのほうが先に検討されます。既に使っているものの延長なので判断が速く、相手にとっても比較検討の手間が少ないためです。クロスセルは、今の商材が定着してから検討してください。
- 提案しても通りません。話法を見直すべきですか。
- その前に、対象の顧客が今の商材を使えているかを確認してください。活用が進んでいない状態で上位プランを提案しても、「今のも使えていないのに」という反応になります。顧客を「使えている」「限定的に使えている」「使えていない」の3つに分け、3つ目には提案せず活用の支援に回ってください。それが次の提案の前提条件になります。
- カスタマーサクセスの部署がありません。誰がやるべきですか。
- マーケティングが対象顧客のリストを出し、営業が提案し、結果を戻すという分担で始めてください。マーケティング側が担うのは、利用状況の可視化、提案材料の作成、タイミングの通知、接点の維持の4つです。営業に代わって提案するのではなく、営業が提案しやすい状態を作る仕事だと考えてください。
- 提案のタイミングはどう判断しますか。
- 営業の記憶に頼らず、条件を決めて拾ってください。利用が増えている、契約の上限に近づいている、担当者が変わった、相手の組織が変わった、予算編成の時期、相手から質問が来た、の6つが主な機会です。すべてを仕組み化せず、まず2〜3個を選んで該当顧客を月1回リスト化するところから始めれば十分です。
- 既存顧客に送るメールは何を書けばよいですか。
- 既に選んでもらった相手なので、選ぶ理由を説明する必要はありません。他社の使い方、機能や運用の更新、担当者の職種にとって役立つ情報の3つが中心になります。特に他社の使い方は最も読まれます。新規獲得のために作った導入事例を、活用のヒントとして既存顧客にも配ると効率的です。頻度は月1回から始めて調整してください。
- 既存拡大に向かない商材はありますか。
- あります。上位プランが存在しない単一商材、一度導入したら追加の必要がない商材、顧客数が10社程度と極端に少ない場合です。また初期の顧客に値引きや特例で契約している場合、値上げも追加提案も通りにくくなります。これらに該当するなら、新規獲得や既存顧客からの紹介の設計に力を割いたほうが成果は出ます。